【二〇一五年 杏】
「え! 父さんが殺人容疑で捕まった!?」
その知らせは、私と修司が付き合い始めて三か月が過ぎた頃に届いた。
夕食の準備をしていた私は、驚きのあまり手に持っていた皿を落としてしまう。
ガシャン。
鋭い音が台所に響き渡った。
「うん、警察の人から連絡があって……そう言われたんだ」
電話を受け取った新は、信じられないというように目を丸くして私を見つめていた。
「どういうこと!? 何かの間違いだよね!?」
「わからない」
新は小さく首を振った。
私たちは混乱していた。いったい何がどうなって、父は捕まったのか。
理解しようとすればするほど、現実が遠ざかるような気がした。
だって、父さんはそんなことをする人じゃない。いつも優しく、周りのことを気遣い、人のことばかり考えるような人だった。
その父さんが――殺人の容疑者?
そんなこと、あるわけない。
気がつくと、私は駆け出していた。
考えるよりも先に体が動いた。全身が熱く、心臓が痛いほどに脈打つ。
無我夢中で走った。
行き先は、警察署。しかし――
「申し訳ありませんが、現在、取り調べ中ですのでお引き取りください」
受付の警察官は、冷たくそう告げた。
それ以上の説明もなく、私は門前払いされる。「そんな……! 会わせてください! 私、娘なんです!」
どれだけ懇願しても、警察官は首を振るばかりだった。
取り調べ中だから。
決まりだから。 その一点張り。私は何もできないまま、途方に暮れ、家へ戻るしかなかった。
家の玄関を開けた瞬間、新が駆け寄ってきた。「お姉ちゃん!」
不安そうな瞳。
心細さを隠しきれない表情。私は必死に、動揺を押し殺し、新の頭をそっと撫でる。
「大丈夫、きっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
翌日、警察から連絡が入った。
父の拘留が決まったという知らせだった。ただし、面会はできるらしい。
私は急いで、警察署へと向かった。
受付で名前を伝え、身分証を確認される。 心臓が早鐘のように打っているのが、自分でもわかった。面会室へと通された。
ガラスの仕切りを挟んだ、無機質な部屋。息を整えながら、父が来るのを待つ。
時計の針の音すら聞こえてきそうな静けさ。しばらくして、奥の扉が開いた。
警察官に付き添われ、父が現れる。
思わず息を呑む。
父の顔は、すごくやつれて見えた。「父さん!」
呼びかけるけれど、父は目を逸らしたまま、私を見ようともしなかった。
――どうして。
いつもの優しい笑顔はどこにもない。
「父さん? どうしたの? いったい何があったの?」
必死に問いかける。
すると、父はぽつりとつぶやいた。「……杏、すまない」
それだけ言うと、父は黙って俯いた。
私は思わず席を立ちそうになる。「ちょっと待って! 父さんは何もしてないんでしょ!?
殺人なんて、父さんにできるわけないじゃない!」必死に叫ぶが、父は何も言わない。
ただ黙って、私から顔を背け視線を合わせようとしない。「もしかして……誰かの罪をかぶってるの!? そうなんでしょ!?
父さんは優しいから、誰かを庇ってるんだよね!? ねえ、答えてよ!」祈るような気持ちで問いかける。
でも、父は頑なに口を閉ざしたままだった。 面会時間が終わり、私は何の答えも得られないまま、ただ一人、警察署を後にする。父の苦しそうな顔が、焼きついて離れない。
何かを必死に耐えているような表情だった。……何かを隠している。
私にも言えない何かで、父さんは苦しんでいる。
これは、冤罪だ。
父さんが人を殺すはずがない。
誰かが罪をなすりつけた。あるいは、父さんは誰かを庇っている。
それしか考えられない。でも――どうして何も言わないの?
それだけが、わからなかった。
真犯人がいる。
そう確信した私は、事件について調べ始めた。
店を出ると、空気がひんやりとしていた。 ふと見上げれば、白い粒がちらちらと舞っている。 ……雪だ。 街灯の光を反射して、空から静かにこぼれる雪が、まるで宝石みたいに輝いている。 私と修司は肩を並べて歩き出す。 気づけば、彼がそっと歩幅を合わせてくれていて―― なにげない優しさが、また胸の奥をあたためてくれる。 街のにぎわいから少し離れた道は、人も車も少なくて、 静けさの中で、私たちの足音だけが小さく響いていた。 そのとき、修司の手が私の手にそっと触れる。 ……そのまま、ぎゅっと握られた。「寒くない?」 小さく問いかけながら笑顔を向ける修司に、少しドギマギする。 いつまで経っても、こうして触れられるだけで、胸が騒ぐ。「ううん。全然。……すごく、あったかい」 そう答えながら、今の幸せをそっと噛みしめる。 その手の温もりも、こうして隣にいれることも、全部が夢みたいで。「……ねえ、修司」「ん?」「ずっとね、クリスマスって苦手だった。 怖かったの。思い出すのが……」 声が少しかすれて、私は空を見上げる。 舞い降りる雪の向こうに、あの頃の自分がぼんやりと浮かんだ。「でも、今はもう、大丈夫。 だって……修司と一緒にいられるから」 私がそう言って笑うと、 修司は何も言わず、ただ私を見ていた。 そして、ゆっくりとあたたかな微笑みを浮かべる。 その笑顔はとても幸せそうで、私の心をそっと包み込んでいった。 私がふと立ち止まると、修司も同じように足を止めた。 ゆっくりと見つめ合い――そのまま、ふたりの距離が自然と縮まっていく。 そのとき。「……姉さん?」 突然、背後から聞き覚えのある声がした。 驚いて振り返ると、そこには見慣れたコート姿の青年が立っていた。 新だった。 両手に買い物袋を提げて、こっちをぽかんと見つめている。 ふと我に返ったように、急いでこちらへ歩み寄ってきた。「あ、新? どうしてここに……」 そう問いかけると、新は不機嫌そうな顔になって、早口でまくし立てる。「これから、家に行こうと思ってたんだよ。ケーキもチキンも買ってさ!」 買い物袋を私の目の前に突き付けながら、新がふんっと鼻息を荒くする。 その声にも、少しだけ棘が混じっているような気が
駅前のイルミネーションを離れ、静かな通りを歩く。 やがて、修司が予約してくれたレストランが見えてきた。 賑やかな街から少し離れた、落ち着いた雰囲気の店だった。 あたたかな光に包まれた店内に足を踏み入れると、ふんわりと香ばしい香りが鼻をくすぐる。 ふと見渡せば、きらびやかなクリスマスの装飾が、空間を華やかに彩っていた。 案内された席に着き、私たちは向かい合って座った。 店内には控えめなジャズが静かに流れていて、 それは、どこか懐かしいクリスマスソングのアレンジのようにも聞こえた。 私はメニューに目を落としながら、気を紛らわせようとするが、どうにも落ち着かない。 さっきからずっと流れている、あの曲―― 耳馴染みのあるクリスマスソング。 この曲を聴くたびに、胸の奥が締めつけられ、心に影を落とす。「……この曲」 ぽつりと、無意識に口をついて出た。 修司がこちらを見る。 私は視線を落としたまま、言葉を続ける。「十年前のクリスマス……真実を知った日も、たしかこの曲が流れてた。 あのときは、本当につらくて、ただ苦しくて……」 語尾がかすれ、喉の奥がきゅっと締まる。言葉がそれ以上、出てこなかった。 修司はすぐには何も言わなかった。 でも、黙って私の言葉を待ってくれているのが分かる。 彼だって思うところはたくさんあるはず。 でも決して私の言葉を遮ることはない。いつも、そう。 そのあたたかな心と優しさに、私はどれだけ救われてきたんだろう。「修司の顔が浮かんで、そして父の顔が浮かんで。 心はぐちゃぐちゃで……。もうどうしていいのかわからなかった。 苦しくて、切なくて、涙が止まらなかった。 でも、それでも、あなたのことが愛おしくて……」 その瞬間、胸の奥にしまったはずの傷が、またぶり返したかのように痛んだ。 決して忘れることのできない、記憶。 それでも―
冬は暗くなるのも早い。 もうすっかり夜の雰囲気に染まった空間を、ツリーの灯りだけが優しく照らしていた。 大きなクリスマスツリーを見上げながら、冷たくなった手にそっと息をかける。「……修司、まだかなあ」 昨日、突然修司からデートに誘われた。 クリスマスイブを、特別な場所で一緒に過ごそう――そんな言葉とともに。 彼なりに気を遣ってくれているのかもしれない。 クリスマス。 それは、私にとって、辛くて悲しい思い出。 胸を刺すような痛みが甦る、そんな日。 父の冤罪をきせた相手が、修司の兄・雅也だと知った、あの冬。 修司のことを、もう愛さないと決めた、あの日。 それが、クリスマスだった。 だから毎年この日が来るたび、 胸が疼いて、心の中が闇でそっと満たされていくような感覚に襲われる。 けれど、今年は。 どうやら、少し違うみたいだ。 どこからともなく流れてくる軽快な音楽。 街を照らすきらびやかなイルミネーション。 そして、目の前でそびえる大きなクリスマスツリー。 行き交う人々に目をやれば、恋人たちが幸せそうな顔で通り過ぎていく。 ……ふふっ。私たちも、あんなふうに見えるのかな? なんて思いながら、寒さで震える指先を、そっと握りしめた。 そのとき。 人混みの向こうに、見覚えのある姿が現れる。 黒いコートの裾を揺らしながら、まっすぐにこちらへ歩いてくる人影。 胸が、ときめく。 ――修司だ。 いつまで経っても、まだ慣れない。 彼を見れば胸が躍り、心が逸る、この感じ。 やがて修司が、私の目の前に立った。 少し息を整えながら、優しく微笑みかけてくる。 寒さのせいか、頬がほんのりと赤くて……なんだか、可愛い。「ごめん、待たせた?」 優しい声に、自然と表情が緩む。 い
【二〇二五年 杏】 修司はあの出来事の後、一度は警察を辞めようとしていた。 でも、署長さんが強く引き留めてくれて、今は新のいる生活安全課に異動して、警察官を続けている。 もちろん、私も賛成だった。 「杏が言うなら……」 なんて、誤魔化していたけれど――きっと心のどこかで続けたかったんだと思う。 今では、新とペアを組んで現場を回っている。 最初は気まずそうだった二人も、今ではすっかり打ち解けたようで、互いの愚痴を私にこぼし合ってくる。 この前「兄弟みたいだね」と言ったら、二人揃って怒られた。 やっぱり、仲良いんだと思う。 二人並んで玄関を出て、マンションの前で向かい合う。「いってきます、いってらっしゃい」 私が手を振ると、修司も笑って応える。「ああ……あ、ちょっと」 急に何かに気づいたように、彼が私に近づいてくる。「髪にゴミが……」「あ、ほんと? ありがとう」 じっとして彼の手を待っていると、ふいに唇を奪われた。「ちょ、何するのよ!」 慌てて後ずさった私の背中に、誰かがぶつかる。「わあっ、ご、ごめんなさい!」 振り返ると、そこにいたのは――新だった。「何してんの?」 ジト目で見下ろす新。「あ、新……?」「ちょっと姉さんの顔が見たくて来たんだけど……最悪のタイミングだったかもね」 そう言って、新が修司を睨む。「へっ、わざとだ」「な、なにそれっ!?」 私の絶叫をよそに、新が深いため息をついた。「ね、姉さん、こんな奴やめて、僕とまた暮らそうよ」「えぇ……?」「こら! 何言ってんだ、このませガキ!」 修司が新と私の間に割って入る。「姉さんは僕といた方が幸せなんだよ。僕は、まだ二人のこと認めてないから」「別に、お前に認めてもらわなくてもいいんだけど」 二人の火花がバチバチと飛び散る。 これはマズい。「はいはいっ、そこまで! いい加減にしなさーいっ!!」 私の声が響いたその瞬間。 青く澄みわたる十二月の空から、ふわりと雪が舞い落ちる。 白い小さな粒たちが、静かに私たちを包みこんだ。 ――空の向こうで、父が笑っている気がした。 今年のクリスマスは、きっといい日になる。 そんな予感がした。
【二〇二五年 杏】 あれから、二か月が過ぎた。 季節は冬。 ふと窓の外へ目を向けると、ちらちらと白いものが舞い落ちていた。 雪――。 もう、そんな季節なんだな。 あと数日でクリスマス。 かつては苦い思い出だったその日も、今度はきっと、幸せな日に塗り替えられる。 そんな気がしていた。 少し肌寒くて、私は布団からはみ出していた足を引っ込める。 横を向くと、すぐ隣で寝息を立てている修司の顔があった。 その寝顔を見ているだけで、胸がぽかぽかとあたたかくなっていく。 私はそっと、彼の頬に唇を寄せた。 修司……かけがえのない人。 長い時間、離れていたからこそ。 こうして触れられること、同じ時間を過ごせることに、深い喜びを感じる。 修司が兄と父の悪事を告発してから、もうすぐ二か月。 あの二人は拘置所にいる。 かつて、父が不当に収容されていた場所。 思い出すと今も胸が痛むけれど。 きっと父は今の私たちを見て、微笑んでくれていると思う。 優しかった父。 私や新が幸せになることを、きっと一番に望んでいた人。 心の傷がすっかり癒えたわけじゃない。 ときどき、何かが疼くこともある。 でも、それでも私は修司と生きていきたいと思っている。 修司もまた、私といることで罪悪感に苦しむことがあった。 時折、泣きそうな顔で「ごめん」と繰り返す彼を、私は何度もきつく抱きしめた。 お互いの痛みを知っているからこそ、寄り添って、生きていける。「……ん?」 修司が目を細め、私に微笑みかけてきた。「杏……起きてたのか?」「うん」 彼が唇を寄せてくる。 私は何も言わず、それを受け入れた。 静かに触れた唇は、やがて少しずつ深くなっていく。「……っん、はぁ……っ、ねえ、朝からするの?」
【二〇二五年 杏】 私は視線を落とした。 すると、すぐに修司がフォローするように言った。「杏が落ち込むことじゃないよ。君は何も気にしないで。 杏は、俺たち家族の被害者なんだから……。 本当に、申し訳なかった」 苦しげに目を伏せる修司を、まっすぐに見つめる。「修司は、何も悪くない。 悪いのは……あの二人。 たまたま、修司がその家族だったってだけ。 私は、修司のいいところをたくさん知ってる。 私は修司のことが……」 想いが溢れて、言葉が喉につかえる。 だけど、もう伝えなくちゃ。 視線がぴたりと重なる。「好き……修司のことが、好き」 それは、この十年、胸に閉じ込めてきた気持ちだった。 驚いたように大きく見開かれた瞳が、ゆらゆらと私を見つめる。 しばらくそのまま見つめ合った。「杏、ありがとう。でも……」 修司が再び目を伏せ、苦しげに言葉を続けた。「俺と一緒にいると……きっと杏はまた傷つく。 もう、俺たちのことは――」「忘れられたら、どんなに楽だったか!」 気づけば、私は声を張り上げていた。 溢れる涙が、視界を歪めていく。「この十年、必死で忘れようとしたよ。 でも、無理だった……。 あなたのことを忘れたことなんて、一度もない。 いつだって、心のどこかにいた」「杏、俺だって……」 修司の目にも、涙が滲んでいた。 言葉に詰まり、彼は何かをこらえるように唇を噛みしめた。「修司……好き。 もう、自分の気持ちに嘘はつかない」 もう逃げない。 もう、誤魔化さない。 心から、強くそう思った。「でも……一緒にいると、杏が辛くなるかもしれない」「何言ってるの!」 修司の顔をまっすぐに見据え、はっきりと言った。